第1回のインターハイ撓(しない)競技部門を制した島の子ら・小豆島高校(1954年 インターハイ)

第1回大会の撓競技風景
第1回全国高等学校剣道大会(インターハイ)の撓競技試合風景 写真提供=剣道日本
名勝負物語

インターハイの剣道は「剣道」と「撓競技」の2部門で開催

第1回全国高校剣道大会は昭和29年に開催された。

第二次世界大戦が昭和20年に終わり、多くのスポーツ競技の全国高校大会は昭和21~23年頃に創設、あるいは戦前の中学大会を受け継いで再開しているが、歴史が長いにもかかわらず剣道のリスタートは遅かった。それはなぜか?

正解は剣道が戦後しばらくの間禁止されていたから、である。GHQ(連合国軍総司令部)により、日本の軍国主義を助長したものとして禁止され、剣道をしたくてもできない時代があったのである。

剣道が復活するためには、武道ではなく「民主的なスポーツ」として生まれ変わる必要があった。

そのために考案されたのが撓(しない)競技である。

竹刀は先を十六に割って布の袋に入れた袋竹刀、簡便な防具をズボンとシャツの上に着用した。得点は部位をとらえると1ポイントが入り、その合計で競う。打つときに声を出してはいけなかった。

関係者の努力により昭和25年に全日本撓競技連盟が結成される。だが、撓競技は短命に終わり、わずか2年後には剣道の復活が許され全日本剣道連盟が創立される。

そんな経緯があったために、昭和29年8月4日・5日に栃木県日光市で開かれた第1回全国高等学校大会(インターハイ)では、撓競技と剣道の両部門が実施された。

実態としては撓競技を練習するチームは少なく、すでに高校生も普通に剣道の稽古をしており、各都道府県の予選優勝チームが剣道部門へ、準優勝チームが撓競技部門へ回るという例が多かった。

第1回大会、剣道の優勝チームは地元栃木の大田原高校、撓競技の優勝チームは香川の小豆島高校だった。

試合は3人制。優勝した両校は総部員数が5、6名程度と少ないことが共通していた。

小豆島では、瀬戸内海に浮かぶ島で当局の目が届きにくかったためか、戦前の大家である中山博道の門人だった菅悟らが中心となり、剣道禁止時代から稽古を再開。

昭和28年には国体の公開競技として行なわれた撓競技の開催地となったこともあり、菅らの呼びかけで少年たちが剣道を始めていた。

多くの高校が禁止が解けてから剣道を始めた部員がほとんどという中で、数年早く少年時代から剣道を経験していたことがアドバンテージになったことは想像に難くない。

その後しばらくの間、小豆島高校はインターハイの剣道部門でも活躍、大会の初期をリードしたチームの一つとして数えられる。

撓競技部門は昭和33年まで5回実施されて姿を消し、翌年から代わりに剣道の個人戦が始まった。