出場選手中最年少、21歳の戦後派が初めて日本一に・桑原哲明(1960年 全日本選手権大会)

桑原哲明選手
桑原哲明(1960年 全日本選手権大会)
名勝負物語

昭和35年、8回目の全日本選手権で初めて20代の選手が頂点に立った。

それまでの優勝者はすべて30歳以上で、つまり戦前戦中に剣道を経験していた選手だった。

桑原は戦後剣道が解禁になってから剣道を始めた世代である。

このとき桑原は21歳と9カ月、その後昭和46年に川添哲夫が21歳と10カ月で優勝するが、半世紀以上を経て平成26年に竹ノ内佑也(21歳5カ月)に破られるまで、最年少優勝記録となった。

当時の全日本選手権は現在とかなり様相が違う。

出場選手の内訳は50代が1名、40代が22名、30代が29名。20代は桑原と29歳の佐藤博信(警視庁)だけだった。

戦後の空白期があったため、桑原と佐藤の間の年齢層がごっそり抜けているのである。

桑原自身、後年の取材に対し「自分は場違いだと感じた」と述べている。

福岡県若松市(現北九州市)に4人兄弟の二番目として生まれた。

4人ともが剣道をしており桑原4兄弟としてよく知られていた。

若松高校時代は玉竜旗大会で2年連続決勝進出、しない競技でも活躍した桑原は、卒業後宮崎県延岡市の旭化成に勤務。

この頃旭化成は剣道に力を入れており、県内や九州各地から剣士を集め、選手は7時30分から15時30分まで勤務したあと16時から18時まで稽古をしていた。

武道専門学校教授を務めた近藤知善を師範に招き、社員やOBの高段者が稽古の元に立っていた。

大会では桑原はそうそうたる剣士たちを次々に破った。

谷鐐吉郎(愛知)、園田政治(大阪)、滝沢栄八(北海道)、川崎道男(佐賀)、大浦芳彦(福岡)、浦本徹誠(大阪)ら、いずれも後年地域を代表する指導者となる剣士たちである。

浦本との決勝ではドウに行って浦本が防ごうとしたところにひきメンを決めた。

「勝てたのはやっぱり若さですね。10歳違いますからバネが違いました。僕の一足一刀が他の方々の一足一刀より遠かったということでしょう」

と後年桑原は振り返っている。

21歳の若者の優勝は剣道界にとって衝撃的だった。

「剣道界がアッと驚嘆したに違いない」

と『剣道新聞』上で湯野正憲(のち範士八段)が評している。

奇しくも同じ日、大相撲九州場所で後の大横綱大鵬(当時関脇)が初優勝を果たした。

スポーツ新聞は大鵬と桑原を並び立て

「スポーツ界にも新しい波が寄せてきている」

と報じた。

2年後の全日本選手権では桑原と同い年の戸田忠男(東レ滋賀)が優勝。

昭和40年代には20代中心の戦いの場となっていく。