3連覇は、当時大きな話題になり、今も輝きを失っていない
第二次世界大戦中、戦後の剣道禁止時期、玉竜旗大会(当時は大会の名称が異なる)には中断があったが、中断前の最後の大会となった昭和17年、戦後復活第1回の昭和30年とも、優勝は福岡商業(現福翔)だった。さらに31年も優勝を続け、1年おいて33年から3連覇を果たす。
当時ようやく参加校数は100チームを超えたところだったが、高校剣道が盛んになり注目を集めたこの時期の3連覇は、当時大きな話題になり、今も輝きを失っていない。
この3年間とも優勝の立役者となった選手が池田健二。
現在は少年剣道の強豪如水館の指導者として数々の全国大会で好成績を収め、剣道界に知られている。
昭和33年、福岡商業の先鋒として出場した1年生の池田は、1回戦、2回戦で5人ずつを抜くと、準々決勝で大分商業に対し3度目の5人抜きを果たす。
「事実上の決勝戦」
と言われた国東安岐(大分)との準決勝では初めて登場した大将・松田光明がふんばり、2人を破って勝ち進んだ。
決勝の嘉穂(福岡)戦では池田は1人抜きにとどまったが、中堅・白木英治のところで勝負を決め、頂点に立った。
翌年、福岡商業は4回戦の杵築(大分)との対戦以外は大将白木を温存したまま、決勝に進む。
中堅の池田は、準々決勝の5人抜きをはじめポイントゲッターとして活躍。
予想通り国東安岐との対戦となった決勝は、五分の展開で中堅同士の戦いとなると、池田は今富豊記を破り、さらに副将・堤義嗣、大将・佐藤正人と続けて破り、一気に決着をつけた。
昭和35年、3年生の池田を大将とする福岡商業は、次鋒・倉掛清信、中堅・秋山敏彦らの活躍で、池田の出番がないまま勝ち進み、前年のメンバーがそっくり残る国東安岐とまたも決勝で相まみえた。
先鋒・高木正義が1勝したものの、国東安岐の次鋒・安倍尚志が奮戦し、4人を抜いて池田を引きずり出す。
絶体絶命のピンチである。
しかし、
「引き分けに持ち込まれないよう積極的に攻めた」
という池田が、安倍、中堅・今富、副将・河野英紀に対して二本ずつ奪う。
大将・佐藤にはコテを先取したあとメンを返されるが、最後は佐藤のメンをはずしてメンに跳び込む。
この時点では大会史上初めてだった決勝での大将の4人抜きで、鮮やかな逆転勝利をあげた。
この年のインターハイ個人戦も池田が制するが、団体戦は国東安岐が福岡商業を破って優勝する。
白い稽古着で躍動した国東安岐は当時定時制の高校で、新聞には「跳躍戦法」などと書かれたが、バネのある体格のいい選手が揃っていた。
のちに安岐高校となってインターハイでも活躍する。