社会人2年目、戦後派が台頭し始めた中で一気に頂点へ
昭和37年と39年に全日本選手権を制覇したのは戸田忠男。当時東レ滋賀に所属し、上段を武器とした実業団剣士である。
初出場は慶應義塾大学を春に卒業した昭和36年で、戸田はベスト8に進み小沼宏至(警視庁)に敗れている。
この大会では現役学生チャンピオンの恵土孝吉が初出場でベスト4に進出した。前年に21歳の桑原哲明が優勝したこともあり、戦後復活後に剣道を始めた世代が台頭し、大会の主役が代わっていく兆しが見え始めていた。
戸田は大阪の今宮高校に入学した昭和29年にインターハイで剣道が始まったという世代である。
昭和30年と31年にインターハイに出場し、近畿高校大会では個人団体ともに優勝を果たしている。
上段をとり始めたのは慶應義塾大学に進んでからのことだった。戦前の東京高等師範学校で高野佐三郎の薫陶を受けた中野八十二師範の指導を受け、上段を磨いた。
昭和37年の第10回全日本選手権大会当時、戸田は23歳。戦前派の市川彦太郎(静岡)や、自分より若い中村毅(東京)、ほぼ同年代の中里誠(茨城)といった選手と対戦して勝っている。
準決勝では警視庁の主力で31歳の佐藤博信を二本勝ちで下す。決勝は戦前の大日本武徳会武道専門学校出身、44歳で初出場という片山峯男(熊本)との対戦となった。
はじめ中段だった片山が上段に上げると、戸田は鮮やかなコテを決め、さらにメンを奪って初の王座についた。
2年後の昭和39年には警視庁の西山泰弘(当時28歳)との決勝を制して2回目の優勝を果たした。
この間の昭和38年にも戸田は決勝まで進んでおり、矢野太郎(兵庫)に敗れている。あと1勝で3連覇という記録が生まれるところだった。2回の優勝は昭和30年と34年に優勝した中村太郎以来2人目のことだった。
この戸田の活躍を嚆矢として、昭和41年に千葉仁(警視庁)、46年には川添哲夫(国士舘大学)ら若い上段の剣士が優勝。
ともに複数回の優勝(千葉3回、川添2回)を果たしたことで、剣道界は上段隆盛の時期を迎える。昭和54年の規則改正で上段に対する「胸突き」が有効となるまで、上段ブームが続いた。
平成初頭に学生剣道界で二刀についての見直しの機運が高まると、「上段の戸田」は二刀の研究を始め、二刀を遣って八段合格を果たす。
平成28年に逝去するまで、二刀の第一人者というべき存在だった。