20世紀最後の全日本選手権
栄花直輝が全日本選手権で優勝を果たすのは9回目の出場のときで、これは西川清紀と並ぶ遅い記録だった。
平成4年に25歳で初出場、7年に初のベスト8、9年に初の3位と順調に戦績を上げて行った。
また兄・英幸も2位1回、3位2回という戦績を残しており、平成10年前後には兄弟ともに優勝にあと少しで手が届くところまできていた。
それを阻んできたのは宮崎正裕である。
平成2年からこの大会の前年である11年までの10年間で、宮崎正裕以外の優勝者は弟の史裕、石田利也、西川清紀の3人だけだった。
平成9年には栄花兄弟と宮崎兄弟による準決勝となり、兄同士、弟同士の準決勝を宮崎兄弟が制している。栄花直輝は直接宮崎正裕と対戦して敗れたことも2回あった。
この平成12年の春、世界選手権大会で栄花は個人チャンピオンになり、団体戦でも活躍。全日本選手権大会当時はすでに33歳になっており、ベテランと呼ばれる年齢だった。
高波進治(熊本)、染谷恒治(千葉)らほぼ同年代の選手を下して勝ち進むと、準々決勝では佐藤博光(大阪府警)、準決勝では原田悟(警視庁)とともに27歳で伸び盛りの勢いのある二人を下した。
そして決勝で対戦した相手は37歳の宮崎だった。前年、前人未到の6回目の優勝を果たしている。
試合は延長となり13分弱で決着がついた。
宮崎が栄花が下がるところにメンを放つと、栄花は表からその竹刀を押さえてその技をいなす。
次の瞬間、宮崎の伸び切った腕に栄花が巧みにコテを打ち込んだ。
「どうして打てたかわからない。自然に出た」
と試合後に栄花はコメントを残している。
一方宮崎は翌年は全日本選手権に出場しないことを示唆するコメントを残した。
全日本選手権の宮崎時代が20世紀とともに終わりを告げた。
3年後に世界選手権団体戦決勝で渾身のツキを決め、栄花は脚光を浴びる。
一時代を築いた印象があるが、全日本選手権優勝はこの1回だけだった。