男子以上に厚い九州勢の壁を破った歴史的勝利・市立橘高校(2002年 玉竜旗大会)
「こんな大それたことを」と監督自ら話した快進撃 玉竜旗大会で女子の団体戦が始まったのは昭和47年だが、当初から男子以上に九州勢の強さが際立っていた。 昭和57年に男子の玉竜旗を初めて九州以外のチームが制したが、女子はその…
「こんな大それたことを」と監督自ら話した快進撃 玉竜旗大会で女子の団体戦が始まったのは昭和47年だが、当初から男子以上に九州勢の強さが際立っていた。 昭和57年に男子の玉竜旗を初めて九州以外のチームが制したが、女子はその…
インターハイの剣道は「剣道」と「撓競技」の2部門で開催 第1回全国高校剣道大会は昭和29年に開催された。 第二次世界大戦が昭和20年に終わり、多くのスポーツ競技の全国高校大会は昭和21~23年頃に創設、あるいは戦前の中学…
個人戦3位2名、地力のあるチームが予選リーグからの激闘を制する 茨城県・水戸葵陵高校が剣道界で知られるようになったのは平成7年、平岡右照がインターハイ個人戦優勝を果たしてからのこと(当時は水戸短大附属水戸高校)である。 …
26歳での初優勝の陰に、日々積み重ねてきた努力があった 2005年に全日本選手権大会初出場を果たした内村良一は、警視庁の先輩原田悟に決勝で敗れたものの2位という見事な結果を残した。 しかし残ったのは悔しさだったという。 …
社会人2年目、戦後派が台頭し始めた中で一気に頂点へ 昭和37年と39年に全日本選手権を制覇したのは戸田忠男。当時東レ滋賀に所属し、上段を武器とした実業団剣士である。 初出場は慶應義塾大学を春に卒業した昭和36年で、戸田は…
黄金期のPL学園に初登場の大将が一人で立ち向かう 昭和51年の玉竜旗大会、大阪のPL学園高校は、初の遠来組(九州以外の高校)としての優勝に限りなく近づいた。 PL学園は玉竜旗の後にあったこの年のインターハイ団体を制するチ…
10年前から上段をとり、間合を研究して大会に臨む 全日本選手権では昭和30年代後半にかけて40代の優勝者が4名生まれている。 第二次世界大戦の戦中戦後には10年近い剣道空白期があったため、戦前戦中から初めていた剣士は40…
久々の優勝の陰に、一刀流の切り落とし一万本の稽古 戦前から剣道が盛んだった早稲田大学は、戦後剣道復活後も強豪校の一つに数えられ昭和56年までの全日本学生優勝大会で9回の入賞(3位以上)を果たしている。 そのうち昭和40年…
人々は「もう一本拝見!」と声をかけ、会場を立ち去ろうとしなかった 昭和20年の第二次世界大戦終戦後、剣道を初めとする武道は日本の軍国主義を助長した「民主的でないもの」とされ、それまで武道を統括した大日本武徳会が解散させら…
前回の雪辱を晴らし、ピンチを乗り越えた高橋の奮闘 アメリカ・カリフォルニア州サンタクララで開催された第11回世界剣道選手権大会、男子代表戦は予想よりも早い段階で緊迫した場面が訪れた。 準決勝のカナダ戦、先鋒井口清(埼玉県…