45歳の最年長優勝記録をつくった最後の戦前派チャンピオン・山崎正平(1968年 全日本選手権大会)

1968年全日本選手権大会 名勝負物語

10年前から上段をとり、間合を研究して大会に臨む

全日本選手権では昭和30年代後半にかけて40代の優勝者が4名生まれている。

第二次世界大戦の戦中戦後には10年近い剣道空白期があったため、戦前戦中から初めていた剣士は40代、戦後始めた剣士は20代で、その間の世代がいなかったためである。

昭和43年、現在までのところ最後の40代、そして最年長の45歳で全日本選手権優勝を果たしたのが新潟の山崎正平である。

山崎は当時新潟県五泉市の市役所に勤務しており、剣道はあくまで趣味として続けていたが、このときが7回目の全日本選手権出場で過去ベスト8が一回、国体にも9回出場するなど、新潟県を代表する選手となっていた。

五泉市は古くから剣道の盛んな町で、山崎は弱かった体を鍛えるために7歳のときに剣道を始めている。

しかし上段を取ったのは優勝する10年前からと遅かった。162センチの小柄な体を大きく見せるため、そして動きの早い若い選手を打つには正眼からでは遅いと考えたからだという。

そしてこの年の大会に臨むにあたって、とくに研究したのは間合をだった。

当時はまだ関西は遠間、関東は近間という昔からの傾向が残っていた。関西は大日本武徳会武道専門学校があった武徳殿など大道場で修行した剣士が多いのに対し、関東には小さな町道場育ちが多かったからと言われる。それまでの全日本選手権優勝者を見ると西日本の剣士が多かった。

そこで山崎は遠間から打ち込もうとする剣士に対し、ジリジリと間をつめて自分の間合にするという戦法を取ったという。

初戦となった2回戦で阿部信三(鳥取)に勝ち、この大会で5年前に40歳で優勝した矢野太郎(兵庫県警)を3回戦で破ると、準々決勝で幸野実(神奈川県警)を、準決勝では野沢治雄(埼玉県警)を下して決勝に進出する。

決勝は過去に二度優勝している戸田忠男(東京・東レ)との上段対決となるが、メン二本を決めて圧勝した。

当時山崎には地元に120人の教え子がいた。

「私もやっと花を咲かせることができた。この後は剣道を通じ、一人でも多くの立派な人間を育てることに全力を注ぎます」と談話を残している。

翌年の全日本選手権では25歳の千葉仁が2回目の優勝。この大会は20代が主役、そして上段全盛の時代を迎える。

写真提供=剣道日本