高校剣道史上に残るライバル対決を制する・河野雄一(1987年 玉竜旗高校大会)

高千穂高校の選手
高千穂高校(1982年 玉竜旗高校大会)
名勝負物語

昭和61年の玉竜旗大会(男子)は、PL学園(大阪)が2年生大将鍋山隆弘の活躍で2度目の優勝。翌年も鍋山を軸に連覇を狙った。

決勝で相対したのは、前年のインターハイ男子決勝でPL学園を下し、女子団体をも制してアベック優勝を果たした高千穂(宮崎)だった。

PL学園は、6回戦で鍋山が引き出され辛勝するなど、苦戦が続く。

準々決勝では八代東(熊本)に対し、副将の山崎慎也までに勝負を決めるが、準決勝では福大大濠(福岡)の大将桑野永広に鍋山が引き出される。

ここは鍋山が二本勝ちで片づけた。

一方の高千穂は、4回戦で西日本短大附(福岡)に苦戦。

相手の中堅に2年生大将の河野雄一が引き出されたが、地力を発揮して3人を抜き返す。

準々決勝でも伝統校の長崎東を相手に大将戦となり、河野の二本勝ちで振り切った。

準決勝は中堅の山口徹が南筑(福岡)の大将と引き分けて勝ち進んだ。

決勝は2試合続けて引き分けというともに慎重な立ち上がりだったが、中堅戦を制したPL学園の下西浩史は、つづいて副将も倒し早くも大将・河野を引きずり出した。

しかし、河野は下西に出ゴテとひきメンを決めると、つづく副将・山崎に対してもひきゴテを先取、山崎にコテを返されると逆ひきドウを決めて、ついに鍋山と対した。

やや不調と見られていた鍋山が、早々とメンを先取する。

しかし河野はあきらめずにひきメンを返すと、勝負となって間もなく、鍋山がコテにくるところをコテに打ち取った。

前年の鍋山が成し遂げた決勝での鮮やかな3人抜きを、その鍋山らを相手に河野が再現してみせた。

一学年違いのライバル対決はインターハイへと舞台を変えても続き、鍋山と河野が個人戦決勝で対戦、鍋山が豪快なメンで優勝を果たす。

PL学園は前年の高千穂に続き男女団体も制して溜飲を下げた。

鍋山のいない翌年、高千穂は玉竜旗で大将・河野を温存したまま連覇を成し遂げた。

天孫降臨の神話の舞台である高千穂では古くから剣道が盛んで、昭和32年には戦後初めて福岡県外に玉竜旗を持ち去った。

その後低迷していた同校を、昭和46年に就任した吉本政美監督が復活させる。

井上公義(八代東)ら先輩監督を目標に、率先して剣道部のバスを購入し遠征を重ねるなどして鍛え上げ、玉竜旗では昭和54年に女子を初めて優勝させている。

この後、平成3年には佐藤博光(第12回世界大会個人優勝)らを擁して玉竜旗男子で4度目の優勝を果たす。

吉本監督は50歳で早世したがその後も含め女子も玉竜旗で4度の優勝を果たしている。