大会で10年ぶりに生まれた20代の優勝者
昭和59年から全日本選手権には「六段以上」の出場資格制限が設けられた。
あまりに勝負に走った「当てっこ剣道」が横行しているからという高段者の意見に沿ったものだったが、それによって大会から活気が失われたと感じる人は多く、6年間実施された後、平成2年には「五段以上」に引き下げられた。
同時にそれまで採用されていた判定制度も2回戦までとなった。のちにどちらの制限も完全に撤廃されることになる。
また、それまでの檜舞台が撤廃され、二会場を使うようになったのもこの年からだった。
六段以上の出場資格制限によって多くの五段の選手が大会から締め出されていたが、宮崎正裕もその一人。
この平成2年に六段になったばかりだった。
すでに警察選手権大会2位の実績があり、2年前の韓国での世界選手権大会にも選ばれ出場していたが、全日本選手権には出場できず、今一つ知名度はなかった。
逆に言えば日本代表に選ばれる選手に出場資格がない全日本選手権という不条理を、宮崎の存在が証明していた。
20代で初出場の選手も多かった中、この大会ベスト4に進んだのは、宮崎のほかは警視庁の白川雅博(35歳)、秋田の教員進藤正広(33歳)、鹿児島県警の前原正作(36歳)というベテランばかり。
白川は警察選手権3位という実績はあったものの、進藤、前原ともに目立った戦績はなく、意外な顔ぶれといえた。
初戦で同い年の松本政司(香川県警)を下した宮崎は五段で初出場の新屋誠(大阪府警)、ベテラン佐藤忠彦(佐賀県警)らを下して準決勝に進むと、寺地種寿(警視庁)を破るなどこの大会の台風の目となった上段の前原からひきメンを奪って決勝進出を果たす。
白川との決勝は全日本選手権史上でもまれに見る短い試合となった。
開始から1分経たずに白川の剣先を押さえてメンに跳び込み一本を奪った宮崎が、二本目開始後も攻めを緩めず、同じようにメンに跳び込んだ。
宮崎の圧倒的なスピードは観客に鮮烈な印象を残した。
当時宮崎は27歳。
この大会で10年ぶりに生まれた20代の優勝者だった。
そして翌年、大会史上初の連覇を達成、史上最多6回の優勝を重ねることになる宮崎時代が幕を開けた。