4連覇を続けていたPL学園(大阪)を破っての勝利
平成3年に念願のインターハイ女子団体初優勝を果たした阿蘇高校(熊本)。前年まで4連覇を続けていたPL学園(大阪)を破っての勝利だった。
この瞬間から、 高校女子剣道は阿蘇を中心に回り始めた。
平成5年には2回目の優勝、1年おいて7年、8年と連覇。
さらに平成11年から4連覇と文字通り黄金時代を築く。
優勝を逃した年も入賞は続けており、12年間で8回の優勝、個人戦でも3人が優勝という、大会史上前例のない独走ぶりだった。
阿蘇に泉勝寿監督が赴任したのは昭和48年のこと。同好会のような状態からのスタートだった。
当時、泉監督の恩師でもある井上公義監督率いる八代東が絶対の強さを誇り、熊本県予選ではその厚い壁が立ちはだかっていた。
それでも3年目の昭和50年に八代東を破ってインターハイ初出場を果たしている。
玉竜旗大会では昭和53年に初優勝、59年には2回目の優勝を果たすとともに、中山千夏がインターハイ個人優勝、と一歩一歩頂点に近づいていく。
昭和61年には女子団体で初の3位入賞を果たすが、先に優勝を成し遂げたのは男子の方で、女子より1年早い平成2年のことだった。
阿蘇の最盛期を象徴する大会が、平成8年のインターハイである。
まず女子個人戦で、2年生の興梠あゆみが、同じ熊本の緒方有希(熊本市立高)を決勝で下して優勝。
団体戦も順当に勝ち上がり、準々決勝では文化女子大杉並(東京)を4─1、準決勝では進境著しい守谷(茨城)を4─0と寄せ付けず決勝に進出。
宮崎北(宮崎)との決勝では次鋒土橋真智子の勝利のあと興梠が敗れていったんは追いつかれるが、やはり2年生の副将福永香織が二本勝ち、3年生の大将藤野有美子も一本勝ちを収めて連覇を決めた。
この年は、初優勝以来女子の陰に隠れていた印象がある男子も奮起した。
玉竜旗大会ではベスト32止まりで、インターハイでもさほど注目はされていなかったが、準決勝で優勝候補にも上げられた関東の雄・習志野高(千葉)に先鋒から4連勝で完勝すると、決勝は佐賀学園高(佐賀)を接戦の末下し、男女団体アベック優勝を達成、女子個人と合わせて4部門中3部門を制した。
泉監督は自宅敷地内に道場「剣泉館」と寮を建て、生徒たちは授業が終わるとランニングで道場に向かった。
「肥後もっこす」の泉監督は、若い頃から強気の性格で、剣道については厳しいが、稽古が終われば生徒の身体を細かく気遣う優しさを持っていたと教え子が証言する。
そして、とくにこの年の男子の優勝の陰には、後に“泉マジック”と呼ばれた心理操作術があった。