【連載①】自分の剣道をつくった稽古とは? | 私の源流:三雲悠佑(東レ滋賀)

三雲悠佑(東レ滋賀)
実業団の強豪・東レ滋賀に所属する三雲悠佑さん。
全日本選手権大会に3度出場したほか、全日本都道府県対抗大会に4年連続での出場を決めるなど、実業団剣士の枠にとどまらない活躍を見せている。
インタビュー

龍谷高校の「考える稽古」が自分の剣道をつくった

大分県出身の三雲さんは、佐賀県の龍谷高校から明治大学を経て東レに入社した。

2007年、三雲さんが次鋒を務める龍谷高校は、玉竜旗大会と地元佐賀で行なわれたインターハイの二冠に輝いた。

後になって気づいたことだが、当時の西村隆義監督の指導は「特殊」だったと三雲さんは言う。でも、それが自分には合っていたとも。

■剣道を始めたきっかけは…

出身は大分県の日田市です。

私が剣道を始めたきっかけは、マンガみたいな話なんです。

近所の小学校で友達とサッカーをやっていて、体育館の横に転がったボールを取りに行ったんです。

そのときに体育館の中から「メーン」っていう声がして、覗いてみたらその姿がカッコいいって思ったのが最初のきっかけです。

たまたま幼稚園の友達が剣道を習っていて、それだったら一緒にやってみないかということで体験入学してみたら、先生にすごくセンスがいいと言われて始めました。

だからあのときサッカーボールを取りに行かなかったら私は剣道をやっていないです。

■父の影響

父は剣道をしていたわけではなく、私が始めてから全日本選手権の放映などを見るようになって、引き込まれたんでしょうね。

宮崎正裕先生の試合を、カッコいい、ああいう剣道をしなさいと言って、スローモーションで何回も何回も、ご飯を食べながら見ていた記憶があります。

小学校時代に一度、剣道が嫌になってやめたいと思っていた時期がありました。

すると、父が当時熊本県の錦町で行なわれてた全日本選抜剣道七段選手権大会の前日練習に私を連れて行ってくれて、宮崎先生に稽古をお願いすることができたんです。

優しいお言葉もいただき、また頑張ろうという気持ちになって剣道を続けることができました。

■一度の稽古で龍谷高校へ行こうと思った

中学卒業を控えて、今はもうなくなってしまったのですが出身道場である若宮剣心会の先生と、亡くなられた龍谷高校の西村隆義先生が同期で、その関係で佐賀インターハイで優勝するためにもう一枚選手を揃えたいというお話をいただきました。

同じ佐賀県の他の高校に一度稽古に行かせていただいたのですが、そういう情報が伝わったらしく、それならぜひうちにということでお声がかかったそうです。

それで龍谷に練習に行かせていただき、一度稽古した印象でもう龍谷に行こうという気になりました。練習内容だけでそう思いました。

正直なところ、ほかの学校と比べてキツいかキツくないかで言えば、当時の龍谷の練習はたぶんキツくないんです。

しかし質が高い。西村先生は「量より質」ということをずっとおっしゃっていて、練習する本数が少ない中で、そこに集中して一本にできるような取り組みをすることが課題でした。そこにすごく惹かれました。

そして西村(龍太郎)、川﨑(輝士)、栗山(慎平)ら同期が佐賀県といわず全国でもトップクラスで、補欠だった山口(敬太)がインターハイでは個人戦で3位になったり、牛島(辰徳)も今大阪府警で活躍しています。

そういうすごいメンバーが揃った中で、レギュラーにはなれないかもしれないけれどやってみたいという思いがありました。

■レギュラーになるため必死だった3年間

同期が7人いた中で、順番で言うと自分は5番手だったんです。

しかしスタートした時点では7番手と言われてもおかしくないと自分ではとらえていたので、必死でやらないとレギュラーにはなれないと思い、そういう意味で必死だった3年間でした。

3年生が引退して新チームになったときには、まだレギュラーに入っていませんでした。

10月か11月頃に宮崎県の武道館旗(宮崎県武道館旗争奪高等学校剣道競技大会)という大会があったのですが、その時に補欠に入れてもらったんです。

その大会は補欠が3人登録できて、私はその3人の3番目でした。たまたま監督が1人選手を交代させて、1番手の補欠が出ても振るわず、2番手の補欠も勝てず、「仕方ない、お前行け」って言われて出たのが初めてでした。

そこで負けなしで終わることができ、それからレギュラーに入ることができたんです。

■レギュラーになるために努力したこと

西村や川﨑は入学してすぐにレギュラーに入って活躍していました。

すごいなと思う反面、オレも頑張らなければという思いはずっと持ってやっていました。

レギュラーに入るために努力したことですか?

先輩も同期も素晴らしい選手がたくさんいる学校だったので、人が稽古している姿を見ることが大切だと思っていました。

うちの学校は2人一組ではなく3人一組で稽古をするんです。

ということは待っている時間があるので、その間、他の部員がどうやって打っているかとか、どういうさばきをしているかをよく見るようにしていました。

自分がやっているときは当然ですが、そうでないときも吸収できるものはどんどん取り入れようと思って、人のやり方を見ていたんです。

西村には、どうやって構えているの?っていうところから聞いた覚えもあります。

■寮生活を活かして

私は寮生活でした。同学年の他の部員は佐賀県内の出身だったのでそうではなく、入寮者は学年に1人か2人。

他のさまざまな運動部員や、仏教系の学校なので僧侶をめざす生徒たちが入寮していました。

寮から学校まで約2キロの距離があったので、普通なら自転車で10分ぐらいで着くのですが、自転車をやめてランニングすることにしました。

方向が同じだった山口と西村に制服を頼んでジャージで走りました。

2007年のインターハイ優勝

2007年、インターハイ優勝を決めた直後に(写真=窪田正仁)

龍谷高校
龍谷高校は明治11年に創立された伝統校。

高校剣道界の名物監督の一人として知られた戸田能徳監督のもと、昭和50年代には玉竜旗2位、インターハイ団体3位などの戦績を残し強豪として知られた。

1983年に赴任した若き西村監督は数年間戸田監督とともに指導、一人立ちしてからはひたすら練習量をこなす時期もあったが、やがて大学に進んでも活躍できるような基本に忠実な剣道を目指す方針を固める。

その試行錯誤の期間を経て1998年、10年ぶりに県総体で優勝すると、翌1999年に初のインターハイ団体制覇を成し遂げた。

三雲さんらが同校にとって2回目の日本一を達成するのはその8年後である。

【連載②】稽古は自分にすごく合っていました | 私の源流:三雲悠佑(東レ滋賀)

2018.04.25

※本稿は平成30年3月8日、取材当時のデータに基づいています。