昭和47年にインターハイ男子団体で初優勝し、計7回優勝を果たしている大阪のPL学園
とくに昭和50年代は八代東(熊本)と並ぶ高校剣道の二強というべき存在だった。
そのPL学園をもってしても九州勢の牙城は高く、最初に玉竜旗を手にするまでは長い時間がかかった。
昭和48年に初めて3位になっているが、とくに惜しかったのは昭和51年。
玉竜旗のあとインターハイ団体を制し、個人でも山本雅彦が優勝している最強チームだった。
林朗、山中洋介らを並べた豪華メンバーだったが、福岡商業の白水清道の神がかり的な活躍に決勝で逆転負けを喫した。
昭和57年、前年3回目のインターハイ団体優勝を果たしたPL学園は10回目の玉竜旗出場だった。
大将は村田浩、この年のインターハイ個人を制する石井健次と翌年の同部門を制する若井聖仁ら2年生がチームの中心である。
そして先鋒・若井、1年生次鋒の上村幸三、中堅・石井だけで強敵を破っていく。
準々決勝でも熊本第一工業を、準決勝では宮崎中央をやはり中堅の石井のところまでで退け、決勝に臨んだ。
決勝の相手は優勝候補筆頭の八代東を準決勝で下した龍谷(佐賀)だった。ともに勝てば初優勝である。
先鋒・若井は引き分けに終わるが、次鋒の上村が龍谷の次鋒から副将までを、絶妙なコテ打ちを武器にして連破し、大将の北原健を引き出した。
北原は準決勝で八代東の次鋒から大将までを抜き大逆転の立役者となっていた。
決勝では上村をコテ二本で退けたものの、中堅・石井との対戦は一本一本となり、北原が思いきって跳び込んだところを石井が冷静にかわしてメンを打ち込んだ。
こうして55回目の大会で、初めて玉竜旗が関門海峡を渡ることになった。
昭和47年に就任した川上岑志監督のもと、全国から有望選手がPL学園をめざし、全寮制で基本重視の稽古を貫いてきた。
年々盛んになる遠征で切磋琢磨し合った九州をはじめとする強豪とは一線を画する、独自の境地を高校剣道界に築いている。
昭和61年には2年生大将の鍋山隆弘の活躍などにより2度目の優勝。
平成9年には大将岡晋輔ら力のあるメンバーが揃い、11年ぶり3度目の優勝を果たす。
この時点まで九州勢以外の優勝はPL学園のこの3回だけだった。