【連載④】全国選抜からの数カ月でチームが変わった|清家羅偉選手 スペシャルインタビュー

清家羅偉(平成29年度インターハイ男子団体優勝)
インターハイ優勝を決めて控えに下がり、野口監督と握手をかわす
(写真=窪田正仁)
インタビュー

勝因はばらばらだった部員たちが一つのチームになったこと

高千穂高校は、吉本政美監督のもとで昭和61年にインターハイ男女団体アベック制覇。これが男女ともに初優勝で、宏一氏在学中の平成3年に男子が2回目の優勝。

男子はそのほかに準優勝が3回、3位が4回、玉竜旗でも連覇を含む3回の優勝とつねに全国上位を争ってきた。

平成7年に吉本監督が宮崎県体育協会へ転出するが、その年に女子が2回目のインターハイ団体制覇を果たす。

平成11年、3年前に八段昇段を果たしていた吉本監督が50歳の若さで逝去。その後佐伯浩美監督のもとで女子は平成15年、16年にインターハイ連覇を果たしている。

野口監督は平成17年に赴任し8年間は佐伯監督とともに指導。その間、男子が平成22年にインターハイ2位になったほかは、インターハイに出場はするものの入賞までは手が届かないということが多くなっていた。

平成25年に佐伯監督が異動し野口監督が中心となるが、その年から28年まで九州学院がインターハイを初めとする各大会のタイトルを独占していた。

清家が中学3年になる平成26年春に高千穂は全国選抜大会で3位入賞を果たしたが、入学してからはむしろ不振といっていい状況だった。1年のときはインターハイ宮崎予選で敗退、清家が団体戦のレギュラーになった翌年も続けてインターハイ出場を逃している。

「県大会で自分が負けてしまってインターハイに出られなかったので、九州大会では結果を残すぞと思っていたのですが負けてしまって……。でもまた次の試合につなげられたらいいかなと考えていました」

■春の選抜ではチームがバラバラだった

新チームになり、平成29年3月の全国選抜大会には出場を果たした。この年から64チームによるトーナメント戦となったこの大会では、1回戦は勝利を収めたものの2回戦で育英(兵庫)に敗れてしまう。清家はこう話している。

「団体戦で5人が一人ひとり自分勝手に試合したりして、なかなかチームがまとまらず、全然つながっている雰囲気ではなかったです」

そのチームが夏には日本一にまで駆け上がる。半年にも満たない期間で何か変わったのだろうか。

「まあ行っても県予選突破、それが最低限度だけど最高かな、ぐらいに思っていました」(宏一氏)

宏一氏の評価も、インターハイ予選の前までは高くなかった。

5月末に開催されたインターハイ宮崎県予選。上位の対戦はリーグ戦で行なわれる。

最後の試合を残して高千穂、宮崎北、都城東の三校に優勝の可能性が残っていたが、都城東との最終戦に勝ってインターハイ出場を決める。2─1とリードして大将の清家の出番となり、すぐに一本先取するとそのまま勝利を収めた。

「その時に、一本取ってしのぐようなこういう戦いもできるんだと思いました。こんな感じで息子が戦ったら行けるかもしれないと」

7月8日~9日に行なわれた九州高等学校剣道競技大会では、予選リーグを2勝1分で突破するも、準々決勝で鹿児島商業と対戦し先鋒から副将まで4連敗を喫する。清家が勝ったものの1─4の完敗。

鹿児島商業はインターハイ本大会ではベスト16に留まったが、この大会の予選リーグで九州学院と引き分けるなど力のあるチームであった。

「なかなかいいチームになったと思って予選も見ていたんですが、鹿児島商業に負けた。でもそんな中で、ああ変わってきたなという選手がいたんです。後に玉竜旗で活躍するんですが、次鋒の古澤(由太郎)。確か鹿児島商業には二本負けだったのですが、今までは逃げて負けていたのが、自信を持って二本負けしている、度胸がついている。息子は確か全勝でしたし、これは分からんぞって思いました」(宏一氏)

■玉竜旗・インターハイで躍進した要因

そして7月26日~29日に行なわれた玉竜旗大会で躍進し、8月9日~12日のインターハイで頂点に立つことになる。

「インターハイでは、選手個人個人が1回戦より2回戦、2回戦より3回戦と、勝ち上がるにつれて本当に強くなっていったなあと思います。林君なんか準決勝まで1回も勝ってないんです。個人戦で頑張りすぎて50分戦った影響もあり、決勝だけ。おいしいとこ取りなんて言われていましたが、でもみんながそうやって一人ひとりカバーし合ったから勝てたと思います。

私が見る限り去年まで、あるいはインターハイ予選の頃でも、すごく勝手なチームだったような気がするんです。先鋒から大将まで全員が一緒の剣道をしていました。先鋒から受け継いで次鋒が戦い、次鋒からもらった中堅が副将へとつなぐ。剣道は個人の勝負なんですけれど、そういうふうな気持のつなぎというのが必要です。それが最後のインターハイでできたのかなと思います」

清家自身も前述のように春の選抜大会の時点で、それぞれが勝手に剣道をしていると感じていた。その点で親子の見方は一致している。

それが夏にはチームとして機能するようになった。そうなることができた理由はどこにあったのか。清家本人は勝因をどう考えているか、改めて聞いてみた。

「みんな剣道が好きっていうことと、遊ぶところもないので走りに行ったり自主練したり、自分たちで鍛えるという部分は、自分たちの学年はすごいあったのかなと思いますね。練習終わって寮に帰って誰かいないと思ったら、走りに行っていたりとか」

一人ひとりが努力した結果が周囲に影響を及ぼし、チームとしてのまとまりが生まれたということだろうか。

「(選抜大会の後)そこらへんからみんな、進路も関わってくると思うのでそれぞれ努力するようになりました。3年生の選手だけではなく、それをみんな真似して、選手以外も自主練をしていました」

玉竜旗で自分たちがやれるという確かな手応えを得て、さらにインターハイが始まってからも成長が続いた。

清家は最終日の朝一番に行なわれる個人戦準々決勝で九州学院の長尾和樹に敗れたが、

「個人でそこまで上がれるとは思っていなかったので、悔しかったですけれどまだ団体も残っていると考え、すぐ切り替えることができました」

と言う。

【連載⑤】26年前ではなく、それからの父を目標に|清家羅偉選手 スペシャルインタビュー

2018.04.25