【連載②】大阪から、父が高校時代を過ごした高千穂へ|清家羅偉選手 スペシャルインタビュー

清家羅偉(平成29年度インターハイ男子団体優勝) 清家宏一氏
清家羅偉は大阪で生まれ育ち地元の中学校に入学したが、中学2年生の2学期から宮崎県の高千穂中学に転校している。高千穂高校で26年前に日本一を経験した父が、愛する母校に息子を通わせたくて高千穂に行かせた……というイメージを抱いて記者は取材に臨んだ。多くの人もそうとらえていたのではないか。しかしその想像はいくつかの点で大きく違っていた。
インタビュー

行きたかったのは高千穂高校ではなく中学だった

清家は小学1年生の時から剣道を始めた。父・宏一氏がまだ現役で、大阪府警特練(剣道特別訓練員)の練習をよく見に行っており、自分もしてみたいと思ったという。しかし当初は剣道か野球かで迷っていた。

「野球の見学まで行ったのですが、どっちかにしろって言われて、剣道を選びました」

入会したのは城東警察署少年剣友会。父がそこに勤務していたわけではなく、指導者は2年から3年ごとに異動があって変わったので、清家の在籍中に4~5人が担当している。

「小2の時に三劔杯(三劔杯争奪少年剣道個人錬成大会)という大きな大会で個人2位になって。そのときに楽しいなと思って、そこからどんどん成績が上がっていったので、剣道を続けようと思いました」

小学校時代は各大会で好成績を残し、6年の時には大阪で行なわれる全日本都道府県対抗少年優勝大会に大阪代表チームの中堅として出場、見事優勝を果たしている。

父の現役時代はマンツーマンで稽古をすることもあった。父が特練の選手を退いて警察署に配属になるとその道場で稽古をしたりもした。宏一氏がその頃のことをこう話す。

「現役のときは私が土日に大阪府警の仲間と大人6人ぐらいで稽古をする中に、1人だけ息子が入って稽古したりしていました」(宏一氏)

身近な存在だった大阪府警の剣士たちや、何より父のようになりたいという思いは当時からあったと清家は言う。

一方で、その人たちがどれだけ凄いのか正確には分かっていなかった部分もある。

父が出場した2006年の台湾での世界選手権のときは現地で応援していたが、当時小学1年生。2009年、ブラジルの世界選手権のときも大阪府警の選手が活躍したが、当時は4年生。

その人たちの凄さが分かってきたのは、「高千穂中に転校した時ぐらいですね」

■「オレ高千穂中学へ行く」

その高千穂中への転校のきっかけをつくったのは父だった。

「地元の中学校でやってたんですが、中途半端なことしていたんです、勉強もせず剣道も……。まあ勉強は今もしていないですが(笑)試合を見に行くと負けてもへらへら笑っているし。私自身が中学生のときはそこまでやってなかったのでそれでもいいかなという思いもあったのですが、でも自分は高校3年間やってもまわりに追いつけなかったということを思い出して、早めに一度言ってみようと考え、息子と話をしたんです。そしたら『やっぱり将来剣道で進みたい』と本人が言うので……」(宏一氏)

本人は多くを語らなかった。

ただ、当時は剣道をしたいという気持ちをなくしたわけではなかったが、一生懸命打ち込める状況ではなく、小学校時代に競い合った仲間たちが活躍するのを横目に、自分は何をしているんだろうという思いがあり、あせりがあったと言う。

「小学6年生のとき都道府県少年大会に出たチームのみんなが、三国中とか住吉一中とかに行って活躍しているのを見て、悔しいという気持ちもありました」

環境を変えようという思いは親子で一致したが、二人ともどこの中学校が強いというような情報は持っていなかった。

そのとき父の頭に浮かんだのが高千穂中だった。毎年ゴールデンウィークに和歌山東高で行なわれる練成会に高千穂高が来ていたが、そのときに高千穂中も来て西和中、貴志川中など和歌山の強豪中学をはじめ各校と練習試合をしていた。

「高千穂中もこんなに熱心にやっているんだとそのとき思ったんです。それに監督の小野(雄祐)先生が高校と大学の後輩でした。剣道を熱心にやっている中学校といったら高千穂中しか頭に浮かばなかったので、とにかく行ってみようと」(宏一氏)

中学2年の夏前、親子で高千穂まで出稽古に足を運んだ。後輩である小野監督から、男子部員は夏で引退する3年生4名と同級生1名の5人、女子部員が2人しかいないと聞いていた。

参加してみると、清家は高千穂中の稽古にまったくついていけなかった。始まって10分ほどで、面を着ける前からバテてしまったのである。

「全然違いました。すり足ぐらいでもうバテました」

と本人が言う。相当なショックだったのだろう。

高千穂中の後に高千穂高でも稽古をしたその帰り、熊本空港で食事をしているときに清家は父に、

「オレ高千穂中学校に行く」

と告げた。

■高千穂にまったく帰っていなかった父が…

宏一氏は、そのときは練習に耐えられなかった悔しさもあったし、勢いで言ってしまったけど、時間が経てばやっぱり地元の方がいいと考え直すだろうと思っていた。しかし本人の意志は固く、2学期から行くと言う。

「小野先生に連絡したら、団体戦組めませんよって言われたのですが、本人の意志が固かったので行かせる方向になりました」と父。

清家自身は決断の理由をこう話した。

「自分も『だいこんに花が咲いた』を見たことがあって、高千穂って結構ヤバイところなんだと思ってちょっとビクビクしながら行きました。その通りで練習もきつかったのですが、剣道が好きだったので、やっぱり剣道で勝つためには高千穂がいいかなって思いました」

『だいこんに花が咲いた』
昭和62年にテレビ宮崎が高千穂高剣道部を取材して制作したドキュメントである。高千穂高を一から育てた吉本政美監督のもと、前年にインターハイ男女団体アベック優勝を果たしていた。宏一氏が入学するよりもさらに数年前のことで、このドキュメントが後述するように宏一氏の剣道人生にも大きな影響を与える。

それにしても、2年生が1人だけで次の年も新入生が入って来なければ団体戦に出られないという環境でも、なおかつ行きたいと思った決め手はなんだったのだろうか。

「剣道だけじゃなく、人間的な部分を鍛えていくという話をいただいたので」

と清家は言う。とにかくこの一回の出稽古が清家の剣道人生を大きく変えた。

こうして高千穂中に転校が決まったが……意外だったのは宏一氏が次に続けた言葉である。

「私は『高千穂を愛する人』みたいに思われているようですが(笑)、実はまったく高千穂に帰っていなかったんです。高校卒業後は25歳ぐらいの頃、吉本先生が亡くなったときに帰ったきりでした」(宏一氏)

東九州自動車道路ができるまで、宏一氏の実家である宮崎県日向市に車で帰るには、熊本市から高千穂を抜けて行くのが一番早かった。だから宏一氏は高千穂を何度も通過しているが、正月の稽古などにも顔を出したことはなかった。清家も高千穂を観光したことはあるが、そこで稽古をしたことは一度もなかったという。

そしてさらに意外だったのは、高千穂中に進む時点で、当然そのまま高千穂高へという道を描いていたと記者はとらえていたが、まったくそうではなかったことである。

「息子が高千穂中に入って、私が何十年かぶりに帰るということで懇親会があり皆さんに来ていただいたんです。そこで小野先生と野口先生(高千穂高監督)に『高千穂高校に行くことは考えていません。高千穂中学校に2年だけ預けようと思っています』とお話しました。お二人とも『分かりました』と言っていました」(宏一氏)

この時点では高校はまたそのときに考えればいい、と親子ともども思っていたのである。

【連載③】あの時高千穂に行っていなければ……|清家羅偉選手 スペシャルインタビュー

2018.04.25