高校時代の父は超えたかもしれないが、少年の頃からの目標は……
「インターハイ決勝の時は、たぶん初めて吉本先生に祈りました。優勝して、妻と一緒に運転して帰る途中も『本当に優勝したのかな、夢じゃないだろうな』なんて言っていました。その後も1週間か、1か月か、本当に優勝したのかなと半信半疑の状態でした。『26年前に選手に入っていない父親の高校に行った息子が、選手として、キャプテンとして、大将として優勝した。そんなことある?』みたいな感じでしたね」
と宏一氏。
玉竜旗で決勝に進出した時点で「26年ぶり」という言葉が飛び交った。
「私は玉竜旗の会場には行けなかったのですが、決勝に進出したと後輩からラインが来て『決勝は26年ぶりです』『26年前って誰の時だろう』『清家先輩のときじゃないですか』『そうかオレのときか』なんてやり取りをしました」(宏一氏)
■26年前の高千穂高校チームで
宮崎県日向市で育った清家宏一氏が高千穂高に進んだのは「だいこんに花が咲いた」を見たことがきっかけだった。
「あれがなければ高千穂には行っていません。中学には道場もなく、平日は各道場でバラバラに稽古をし、土曜日だけ揃って稽古をするという剣道部で、高校に進んだらもう剣道はしないと思っていました。ところが、『だいこんに花が咲いた』を興味本位で見て、こんな人が県内にいるんだと感動した。それで父と母に、『オレ高千穂に行くわ』って。『お前アホか、絶対無理や』って言われましたけど」
平成3年のレギュラーは先鋒から順に浅田健二、溝川幹俊、甲斐昌太、佐藤博光、吉井泰裕。国士舘大の主将をつとめた吉井、中央大へ進んで全日本学生個人2位などの戦績を残した浅田、宏一氏とともに大体大、大阪府警と進み世界選手権大会個人優勝者となる佐藤など、高千穂史上最強とも言われるメンバーが揃っていた。そんなメンバーの中で宏一氏は、高校3年の1年間に稽古で一回も吉本監督にかからなかったのだという。
「強制的にかかってこいと言われた時以外は、怖くてかかれなかったです。卒業の前日の最後の稽古で、このまま吉本先生と剣を交えないで終わったらオレはダメになるなと思って、もう殺される覚悟で行きました。卒業式のあとの卒部式で後輩がアーチをつくってくれる中を抜けるのですが、吉本先生とも何もしゃべらずに終わろうとしていたとき、先生の奥さんが私だけを引っ張り出して、『お父さんはあんたのことものすごく期待している。大阪体育大に行っても頑張らなあかんよ』って。優勝メンバーにもそんなことしないのに私だけ二人に抱きかかえられて……。涙を流しながら『ああ来てよかったー』って最後の最後に思ったんです」(宏一氏)
そんな高校時代を送った宏一氏だが、大阪体育大で関西学生個人優勝、全日本学生団体戦で大将を務めて2位などの戦績を残し、大阪府警では不動のレギュラーとして活躍、世界選手権大会日本代表チームの大将まで務めた。その軌跡はまた別のストーリーとして興味深いが……。
清家は小さい頃から、26年前に父が高千穂高にいてインターハイ優勝したことを知ってはいた。が、それを意識することはなかったという。
「26年前優勝したっていうのは知っていたんですけど、選手じゃなかったというのを聞いて……。自分は選手になれているから(笑)、そんなあせりっていうのは……」
ちなみに、父と同じように上段をとらないのか、と何人もの人から聞かれたことがあるそうだが、本人は上段をやってみたいとは「まったく思ったこともない」という。野口監督からも一切そんな話はなかったそうだ。
■「息子は根本的に稽古の仕方が違う」
少なくとも高校での戦績では息子が父を超えたことになる。そんな息子を父はどう見ているだろうか。
「高校生のときの私は剣道が好きだったかっていうとそうでもなかった。どこに行っても、厳しいことがあっても耐えられる土台をつくったのが高校3年間だったとは思います。でも息子を見ていると、稽古の仕方が根本的に私と違うなって思うことがあります。息子が稽古している姿を見て、ああ、凄いなと思います。当時の私だったら、この先生怖いな、嫌だなと思ってそれだけで負けてしまうようなところがあったんですけれども、息子は誰にでも臆せずかかっていく。
先日の大阪体育大学の寒稽古も、私と一緒に欠かさず行って、それが終わって城東警察署の稽古に行って、その後は新東淀川中学校の寒稽古に友達を誘って行ったりしていました。家に帰ってきても、ずうっと竹刀を持っています。本当に好きなんだなと思いますね」(宏一氏)
平成30年正月に、高千穂高で第43回高千穂高校OB戦が開催された。毎年恒例の行事でOB会である剣実会と現役選手チームが対戦する。大将戦は清家親子の対決となった。
Youtubeにも映像がアップされているが、羅偉が意表をついて左片手で父の右小手を打って先制する。宏一氏が片手面を返すが、最後は息子が今度は左小手を諸手でとらえた。これで代表戦となり再び両者が対戦。そこでは父が意地を見せ、諸手で小手を決めた。
「(最初の小手は)今までの上段人生の中でも打たれたことないんとちゃうかな」
と父が言えば、
「試合前はそんなに考えてなかったんですけど、相対した時(右小手を)打ってやろうかなと思って」
と息子が言う。
「私はどうしても高校生とは剣が合わないんですよ。ひき技とかも打とうとしていたから、試合中に『お前そんなところ打つなよ』って言って。以前『上段に対してこういう攻めで』とか息子が偉そうなこと言っているのも聞いてたから、『10年早いわ、真剣やったら行けるわ』と思って。だけど、あの小手を打たれて『ふざけるなー』って思って……(笑)」(宏一氏)
清家は笑いながら父の話に耳を傾けていた。
清家にとっては父のように世界選手権で大将を務めることが小さい頃からの目標だった。だから、高校日本一になった今でも父は目標である。
「高校時代の結果としては超えたと思うのですが、将来的にはまだまだ超えていない。小学校の時は日本代表になって大将になるとか言っていたのですが、今はそんな簡単になれるものではないことが分かっています。高校でいい結果を残しても、大学に行って結果残せない人もいるじゃないですか。そういうふうにはなりたくないので、(インターハイ優勝を)自信にしながらも、これから頑張っていきます」
大学進学にあたっては、野口監督の母校である中央大に決めた。
「野口先生に中央大学に行けと言われたわけではなく、最終的に自分の考えで決めました。エリートの選手が集まっているところで日頃から練習できるのは凄いことだと思うし、関東の大学は大会の規模も大きいので、将来警察官になったときに緊張しないようになれるかなと」
そう、将来の目標は警察官だという。大阪府警?と尋ねると、
「そうですね」
と即答。傍らの父がとてもうれしそうな笑顔を見せた。
文中選手の敬称は略しています。